2014年7月1日火曜日

Haruki Murakami "Kino"


友人が貸してくれて、村上春樹の最新刊『女のいない男たち』を読んだ。
短編集だし、娯楽としてサラサラと楽しく読んでいたが、その中の「木野」という物語は、読んでいる最中にじわじわとショックを与えてきた。

「自分が負った傷に、しっかりと目を向けること」の必要性。
それを提示されたように感じて、どんどん気持ちが焦っていった。
誤魔化して逃げ続けることはやはりできないんだ、と。

世の中の多くの人が負わなくてすむような類の傷を、運悪く自分が負ってしまった場合は特に、その事実から目を背けようという意識が働く。
(自分だけが不幸だとは思いたくない)

そして無理矢理、その出来事を美化しようとしてみたりもする。
(辛かったけど、人生勉強になったよ、とかなんとか)

でも結局のところ、それはやはり「傷」でしかない。
血が乾いて、かさぶたが取れても、その傷跡は、「このような傷を負った」という、消しようのない記憶とともに、自分の中にべったりとくっついている。

子どもの頃に経験する、自分の力ではどうにも避けようのない問題から発生する傷。
大人になって、自らの行いによって引き寄せてしまう傷。
自分に非はなくても、理不尽に付けられる傷。

大なり小なり、いろんな傷があるけど、その受け入れ方や、その後の取り扱い方というのは、簡単じゃない。
でも、ちゃんと素手で掴んで、然るべき処理をしなくてはいけない。消すことはできなくても、“癒す”ことは出来るはずだ。

身体に貼り付いた古い絆創膏を剥がすときのように、ヒリヒリとした痛みを伴いつつも、そこにある傷をしっかりと見つめて、それを癒していく必要があるんだと、そう思った。